2010/6/7 月曜日

清和四條流

Filed under: 大人の楽しみ — makun @ 16:34:23

清和四條流の 家元襲名披露に参列して来ました。場所は日吉大社の西本宮で盛大にそして厳粛におこなわれました。正直言って包丁式なんていう代物は初めてなので興味津津です。
当日は(6月2日)眩しいくらいの晴天で屋外のイベントには最高の日です。西本宮の拝殿の前には滋賀県?の料理関係者の展示品がずらっと並んでありました。tennji.jpg
1番左が大将の作品で隣が1番弟子の松田氏(いつも厨房にいます。)その隣がいつもカウンターにいる井上氏の作品です。拝殿の周りにテントが張ってあり椅子が並べられており関係者席、一般者席と張り紙が張ってあり一般者に座り開始の11時迄待っておりますと、緊張した清元の大将を先頭に5〜6名の烏帽子直垂の平安時代の衣装に纏われた清和四條流の一団が入場してきました。おもむろに拝殿に昇殿し緊張の中に包丁式が始まりました。(6名の雅楽演奏がいちだんと高く聞こえてきます。・・余りにも天気が良いので拝殿の様子は遠い世界のようでした。(・_・;)
厳粛の中で緊張した面持ちで清元の大将の包丁式が始まりました。houtyousiki1.jpghoutyousiki2.jpg
包丁式の後、清和四條流35代家元の継承式を日吉大社の宮司主導により取り行われました。keisyousiki1jpg.jpg
その後清元の大将、否35代家元清本健盛の礼の挨拶で締括りです。aisatujpg1.jpg
引き出物と家元と書かれた看板。私は参加しなかった祝賀会の様子です。hikidemono1.jpghikidemono2.jpg
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2010/4/21 水曜日

続/東海道・中山道の旅(鸚鵡籠中見聞録より転載。05.11月分)

Filed under: 景色・景観, 大人の楽しみ — makun @ 22:23:21

中山道走行中
日本橋、板橋、蕨、浦和、大宮、上尾、桶川、鴻巣、熊谷、深谷、
途中、桶川、鴻巣、深谷の道路沿いの道標です。
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本荘、新町、倉賀野、高崎、板鼻、安中、松井田、坂本、
松井田宿は米宿とも呼ばれ繁栄した。
坂本宿は碓氷峠の麓である事から坂本と名付けられた。   
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中山道

軽井沢、沓掛、追分、小田井、岩村田、塩名田、八幡、望月、芦田、長久保、和田
芦田宿と和田峠
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和田峠を過ぎるといよいよ下諏訪です。
下諏訪は、諏訪大社下社の門前町として繁栄し難所和田峠、甲州街道との分枝そして中山道唯一の温泉場として賑わった。
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下諏訪を過ぎたら塩尻、洗馬、本山、贄川、奈良井、薮原、宮ノ越、福島、上松、須原、野尻、三留野、妻籠、馬籠、落合、中津川、大井、
オオシテ(漢字が出てこない)細久手.御嵩
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妻籠はひなびた宿であった。明治以降も時代に取り残されてしまった故に多くの遺構を今日に伝え、
長野県の明治100年事業で町並みが復元され今日では重要建造物保存に指定されている。
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妻籠の本陣のなかにあった。
珍しい座敷の大名用?のトイレ(昔は雪隠せっちん)と湯殿
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御嵩は願興寺の門前町です。
御嵩の資料館に行ったら休館日(>_< )
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御嵩を過ぎると伏見、太田、鵜沼、加納、河渡、美江寺、赤坂、垂井、関ヶ原、今須、柏原、醒井、番場、鳥居本、高宮、愛知川、武佐、守山、草津。草津で東海道と一緒になります。
写真は柏原
柏原は艾うどんがあって昆布を艾に見立てて上に赤いショウガを乗せて火に見立てるうどんが名物と書いてあったのでうどん屋を探したが夜になったせいもあり見つからなかったのが残念(T_T) まぁ〜滋賀県だし折りを見て探します。
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東海道・中山道の旅(鸚鵡籠中見聞録より転載。05.11月分)

Filed under: 景色・景観, 大人の楽しみ — makun @ 17:30:33

瀬田唐橋から出発しました。
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土山の本陣跡です。
土山宿は、京都、大津、草津、水口、土山宿です。
土山の地名は中世甲賀五十家の一つ土山氏がこの地を治めたのが由来らしいです。
難所の鈴鹿峠を控え旅人で賑わった。
「飯盛りなし、宿の女の袖を引き、その夜の伽とする也」とあります。

岡崎宿

亀山、庄野、石薬師、四日市、桑名、宮、鳴海、知立、岡崎で岡崎に来ました。
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1542年12月16日、岡崎城内で産声を上げたのが徳川家康です。
岡崎藩は代々五万石でも「五万石でも岡崎様はお城下まで船が着く」と唄われ舟運が盛んであった。

「岡崎女郎衆は良い女郎衆、揚げ代二朱也.五百文もあり」とある

袋井宿
妙日寺、日蓮の父、貫名重忠の墓と供養塔が在る
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Posted by makun at 15:34:23 │東海道&中山道の旅
2005-11-18

袋井宿は日本橋、京のいずれから数えても27番目と謂う丁度真ん中の宿です。
「この宿の飯盛り女も外の宿にかわる事なし五百文也」とある

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御油宿

赤坂、御油と来ます。
「御油に赤坂吉田がなくば何の江戸通い」(参勤交代の武士編)と唄われ「揚げ代は五百文と三百文あり」とある
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三島宿

吉田、二川、白須賀、新居、舞阪、浜松、見附、袋井、掛川、日坂、金谷、島田、藤枝、岡部、府中、はぁ〜・・・
江尻、興津、由比、蒲原、吉原、原、沼津ようやく三島。どっこいしょと。。。
箱根峠を無事越えた人々は「山祝い」として祝杯を上げた。三島大社の参拝者もあり多いに賑わった。
「飯盛り女郎五百文いにしえより名高し」とある.
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箱根は小田原藩が管轄した

日本橋
箱根、小田原、大磯、平塚、藤沢、戸塚、保土ケ谷、神奈川、川崎、品川、日本橋・・・お疲れさまでした。
(車のナビチャンが空いている道を選び藤沢以後は東海道を通らず、私も疲れていたし関東生まれなもので結構馴染みがあるものでつい、
いいか!って飛ばしてしまいました
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江戸時代の旅

江戸時代の旅と云っても江戸時代が300年近くあるし貨幣価値が最初と終わりではかなり違うと思いますが余り難く考えないで下さい。
 武州荏原郡喜多見(世田谷区)に国四郎(百姓)が伊勢に出かけた。(弘化2年、1845年)1月22日出発、伊勢参りのあと大阪、宮島
(広島県)岩国(山口県)京都、琵琶湖等を見物して4月22日帰った時の費用(名物の飲食、土産、芝居見物、見せ物見学を全て入れて)
が5両2分・・・1両が10万で55万くらい
庶民が泊まる宿は200文くらい(¥5,000)因みに飯盛り女の相場も200文。
 江戸時代の川柳 亭主の旅日記を見た女房が ※旅日記、この二百はえ、二百はえ
旅籠は売店がない、代わりに宿に物売りが来る  14〜5才の前髪(少年)がお煙草入りませんか?楊枝(ようじ、ハブラシの事)歯磨き
(歯磨き砂)お鼻紙はいりませんか?
別の物売りが焼酎は要りませんか?白酒あがりませんか?この焼酎は脚に吹きかけ疲れを取る事もする。
それに座頭の按摩が来る寄付の勧進に来る瞽女が三味線を鳴らして伊勢音頭を唄う・・・と賑やかだったらしい

江戸時代の旅続き

普通、江戸からだと江の島、鎌倉、箱根七湯等一週間ぐらいが多かった。これなら一両もあれば充分に贅沢な旅を楽しめた。
※ 七つ立ち は午前四時頃で旅人は大体1日十里ぐらい歩いたから朝は早い。
※江戸から京都。125里余り13〜15日くらいの日程。
※草鞋一足20文、※ 「あい お世話」茶店を出る時、茶だけ飲んで立つときは茶わんに1文入れる事になっていた。
※普通の遊女は店先に並んで客を待つ「張見世」張見世で気に入った遊女を選び揚げ代も高くて2分(4分で1両)
か1分(1両で10万、単純計算で5万か25,000)無論それ以下でも遊べた。
※因みに弥次喜多の北さんは華水多羅四郎(はなみずたらしろう)の抱えの色子だから喜多八は陰間上がりだった。
(陰間・色を売る少年)※ 川柳にも遊女よりあわれ陰間の年季明け(少年の僅かな間だけ商売になるがやがて、
髭の剃跡が青々してくる、筋骨たくましくなるとグロテスクになるばかり、
そうなると陰間でなく化け間になる。寺院関係者の愛好者が多いらしくそのつてで、寺男やら武家の中間か物売りになるしかない。
※陰間の事を筍だと云う何故なら成長したら喰えなくなる。 一般に江戸庶民は男色に大らかだった。
※東海道中膝栗毛は膝を栗毛の馬に例えた洒落です。
※木賃宿  食料の持ち込みでそれを焚く薪代を払うから。

2010/4/17 土曜日

菊御膳 (鸚鵡籠中見聞録より転載)

Filed under: 食べ歩き — makun @ 22:31:05

菊御膳
今日は西教寺の菊御膳を紹介します。(と言っても私自身も初めてです。)
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西教寺に菊御膳を申し込んだ時に本堂が良いですか?イスで食べられる食堂にしますか?
と聞かれて食堂にして貰いました。
西教寺の研修道場の食堂に菊御膳が用意してありました。
流石に西教寺の食堂です。仏像が見守っています。
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さて肝心な料理です。
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菊酒は初めてですが、(昔の重陽の節句に飲むのと同じかな?
ちょっとググって見ました。
菊酒とは重陽の節句(旧暦の九月九日)いわゆる「菊の節句」に飲む菊の花を浸した
日本酒のこと。
花札の絵に菊と酒盃がセットで描かれているのは「菊酒」を表現したもので、「桜に幔幕」
の札とで「花見酒」、「月」の札とで「月見酒」と日本の行事にまつわる役を作る札。
製法
江戸時代の資治通鑑には二種類の製造法が紹介されている。
一つ目は、菊の花びらを浸した水で仕込みをすると言うもので、
有名な加賀の菊酒はこの製法で作る。
二つ目は、現在梅酒などを造る時の要領で、氷砂糖と一緒に寝かせた菊の花びらを
焼酎に漬け込むもの。眼病や婦人病に効果があると、江戸時代に広く薬酒として愛された。
そのほか、原料となる米に菊の花の香りを移すものなど、諸説ある。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より

飲んで見ると甘〜い梅酒みたいな味がしましたから、製法その2ですね。
ほのかに菊の香りがしました。
菊御膳の感想は「菊のなます」と「菊の白あえ」と「菊寿司」が美味しかったです。
特に菊寿司は、ちりめんご飯の変形でした。(私がちりめんご飯が好きな所為もある。)
「胡麻豆腐の菊あんかけ」は胡麻豆腐のはこくが有って美味しかったのですが
あんかけがちょと辛すぎました。
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西教寺の箸をいただいて帰りました。
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帰りにユーモラスな龍に挨拶をして色ずき始めた参道を愛でながらゆっくり秋を
満喫しました。
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閑話休題、茶摘み(鸚鵡籠中見聞録より転載)

Filed under: 景色・景観, 大人の楽しみ — makun @ 19:48:09

閑話休題、茶摘み
 日吉茶園で茶摘み行事に遭遇しました。
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この枝折り戸が空いているのを初めて見ました。
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日吉茶園:延暦寺を開いた最澄(さいちょう)が、唐から持ち帰った茶種を植えたのに始まる日本最古の茶園と伝えられ、園内には大正10年(1921)日吉大社が建立した由来碑があります。嵯峨天皇に弘仁六年(815)最澄と同道した留学僧の大僧都永忠によって茶が献じられたと伝えられる。毎年摘まれるお茶は茶筒で2、3缶ほど。5月に摘まれ、6月に比叡山延暦寺の浄土院で行われる「長講会(ちょうこうえ)」や、翌年4月、日吉大社の山王祭の献茶に使用される。「日本最古の茶園」説にちなみ、同社の「もみじ祭」では毎年、裏千家による献茶祭が行われる。
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帰りに日吉茶園に寄ったら枝折り戸が閉まっておりました。
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2010/4/12 月曜日

続雄琴城、和田秀純 (鸚鵡籠中見聞録より転載)

Filed under: 大人の楽しみ — makun @ 19:34:56

鸚鵡籠中見聞録に書いてあった記事です。(ぐうたらな者でブログ2つは負担です)
和田秀純をグッグって見たら出ていましたのでここに記しておきます。(興味のない方はご免なさい。m(_ _)m )
和田(佐々木)氏
 近江国甲賀郡和田村に住した和田氏には、佐々木六角氏から分かれたとする説があり、その子孫がいまに近江国の旧家として続いているのである。すなわち、佐々木六角政頼の三男高成の次男定秀が和田を名乗ったとし、その曾孫に伊賀守惟政が出たとするものである。
 定秀は神崎郡和田に住し、和田山城主となり和田を名乗った。孫の高盛が、神崎郡和田から甲賀郡の伊勢国境に和田に移り住んだようである。高盛には三人の子があって長男が和田城主となり、その子が将軍義昭を援けた惟政であった。三男は中務大輔秀純となのり、六角義秀の近臣となり、のち義秀から志賀郡の雄琴城を賜わり、志賀郡の旗頭を命じられた。
 雄琴は北国や北近江から比叡山や坂本、さらに大津・京都に通じる北国街道の要地であり、琵琶湖湖西の水上を抑える重要な地点でもあった。このため、六角氏は早くからこの地に城砦を築いて西近江を固めるとともに、上洛や帰国の道筋を安全たらしめ、さらには将軍家の後ろ楯となって幕府や京都の治安を担っていたことから、雄琴を中心として南の坂本、北の堅田から京洛に通じる道を確保していたのである。
 それゆえに、六角義秀は信任する和田秀純を、雄琴城に入れて守備をさせたのである。その後、織田信長が将軍義昭を将軍に奉じるという名目で、近江に大軍を進めてくると義秀以下佐々木六角の旗頭たちは信長に協力することとなり、ついには信長の支配下となった。
 ところが、箕作城主の六角義賢(承禎)は、信長にあくまで抵抗して滅ぼされた。それ以後は佐々木家の旗頭たちは、六角義秀に仕えるとともに、信長の陪臣という立場となった。なかでも雄琴城主の和田秀純は、坂本城主となった明智光秀の支配下にも従うという、複雑な立場となっていった。
 その後、光秀が謀叛を起こして、信長を京都の本能寺に攻め殺した時に秀純は、光秀の味方には加わらなかった。そして、光秀を討ち滅ぼして、信長の仇を報じた豊臣秀吉に従った。そして、秀吉よりも先に秀純は死去した。
 秀純の嫡子は信盛で、六角義郷に仕えたが、六角氏が衰微したため、岐阜城主で信長の孫にあたる織田秀信に仕えた。慶長五年関ヶ原の合戦が起こり、秀信が西軍石田三成に与したため、東軍に岐阜城が攻め落とされたとき、信盛は奮戦して討死した。家は弟の正盛が継いだ。
 正盛は兄と同じく弓術に優れた武士であったが、佐々木氏が滅亡し、徳川氏の天下となり一国一城の令が布かれたため、雄琴城は廃城となった。そして、正盛は世に出る機会もなく郷士となって、六十七歳で没したという。
 その後、和田氏は雄琴に住して、江戸時代には膳所城主の本多氏、大構城主の分部氏などの知遇を得るなどして、一族は繁栄して、いまに多くの古文書や武具などと併せて家名を伝えている。
 足利幕府最後の将軍義昭に仕えた惟政を出した和田氏が、清和源氏満政流なのか、ここに記したように佐々木六角氏流なのか、その真偽は分からない。しかし、それぞれの家に伝わっている説が、正しいと信じる限り、それが正しいのだろう。(武家家伝 和田秀純で検索
お墓には、和田中務秀純・後側は慶長8年12月3日卒?(秀純は、光秀の味方には加わらなかった。そして光秀を討ち滅ぼして、信長の仇を報じた豊臣秀吉に従った。そして、秀吉よりも先に秀純は死去した。古文書には本当に整合性が無い)と彫ってあつたが和田家の古文書にでも書いて有り例の叡山高校教諭の方が彫ったのかも?と想像をたくましくしております。江戸初期(1603年)から彫られていたら風化して読めないかも?と思ったりして。)
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雄琴城主!和田秀純 (鸚鵡籠中見聞録より転載)

Filed under: 大人の楽しみ — makun @ 18:48:53

鸚鵡籠中見聞録に書いてあった記事です。(ぐうたらな者でブログ2つは負担です)
以前聞いた和田一族の墓の見学&屋敷跡が第一目的の散歩です。何故、和田一族の事が気になったかと云うと何気なしに読んだ本に出ていたからです。
最近、比叡山高校教諭和田頴氏方で出てきた古文書で明らかになった。
 和田さんの先祖和田秀純は現在の雄琴方面に勢力をもっていた土豪で、
これを味方にひき入れた光秀が和田秀純あてに、:::延暦寺攻撃は決して
おどしではない。・・・旨の事を書き送っている。この光秀の手紙が出てきた事に
ついては、わたしの叡山ゆきの前後に新聞に出た。
司馬遼太郎(叡山の諸道より抜粋)
何故か雄琴の土豪という表現が親しみを感じて(雄琴が生活の中心です!)出来る限り調べて見たくなりました。(急に郷土史家です。)
和田家文書(わだけもんじょ)雄琴所有者個人所在地大津市雄琴二丁目時代室町
和田家は雄琴に勢力をはった土豪で、室町時代近江守護六角家に仕えた家柄というが、
詳細は不明である。明智光秀が和田秀純に宛てたこの三通の書状は、
山門焼き討ちに関る内容から、元亀2年(1571)・同3年のものと考えられる。
なかでも、9月2日付けの書状からは、山門焼き討ちを前に光秀が行った雄琴の和田氏や
仰木の八木氏への工作が知られ、『信長公記』や『言継卿記』など記録や伝聞資料でしか
知られていなかった山門焼き討ちを伝える一次資料である。(大津市指定文化財)
江源武鑑「江源(こうげん)」とは「近江源氏」の略です。 
江源武鑑の信憑性
内容は見ていただけばわかりますが、通説との年号のくい違いは結構あります。
また聞いたことのないような人物も多数登場します。そのほか天狗や妖怪の類、超常現象なども
頻繁に現れ、おや?と思うような場面も何度もあります。ただこういったことは古文書にはよくあることです。(と云う事ですからあまりかたく考えないで下さい。)
元亀元年六月の江北姉川合戦について目賀田摂津守入道頼鬼、浅井土佐守入道時雲の
両名が日記に記した内容である。
元亀元年十一月小二十四日
味方では雄琴城主和田中務丞秀純が深入りして負傷し十死一生の状態であるとのことである。
屋形義秀公はこれをお聞きになって和田の働きに感じられ即座に自筆の感状を与えられる。
この和田の働きとは今城の二の丸に乗り込んで敵十二人と一人で戦い、
十四ヶ所も傷を負いながらついに味方の陣に帰ったということである。
元亀四年(癸酉) 今年の冬改めて天正元年と号す 八月小
十六日 信長が志賀郡の城々、雄琴、堅田、和爾、木戸、比良五ヶ所の城を攻める。
観音寺城から援軍を送るのは困難であるので落城する。
五ヶ所の城主は雄琴城が和田中書秀純三百騎、堅田城が山田民部少輔忠宗八百騎、
和爾城が和爾丹後守秀氏四百騎、木戸城が木戸越前守秀資三百騎、
比良城が田中左衛門尉二百騎である。
これらが城に立て篭もるが信長が四万余騎にて戦うと木戸越前守、
田中左衛門の両人が寝返り、さらに残りの城は屋形の援軍を待っても湖上からでは
遅くて間に合わないため開城して船で観音寺城へ退却する。」
これにより信長は志賀郡を手に入れ五ヶ所の城に家来等を配置する。
等々の記述を見るとどうやら和田秀純という人はかなりの豪傑で部下が約300騎位ですね。!!
そして、最初は浅井長政に味方してその後明智光秀の家臣になりその後はどうなったのかは分かりませんがお墓を見る限りでは没年が慶長8年12月3日となっています。(慶長8年の2月には徳川家康が征夷大将軍の宣下を受けています)
歴史の面白さと言ったら良いのか?最初は小谷城の浅井長政の勢力下にいて、織田家と戦いその後、明智光秀の旗下に入り叡山の焼き打ちに参加して、没年が慶長8年という事は明智光秀の没落後はどんな方法で連綿と子孫を残したのか?そしてその子孫が約400年後には叡山高校の教諭になるなんて・・・和田秀純の家を残す為の苦労と400数十年後の皮肉な結果を思い巡らし妙に今日の明るい天気が眩しかった。

2009/12/18 金曜日

竹邑庵太郎敦盛その2

Filed under: 食べ歩き, 大人の楽しみ — makun @ 0:42:43

12月に入り寒くなりました。皆様は如何ですか?今日は京都の帰りにあまりにも寒いので竹邑庵太郎敦盛を思い出しました。
ナビに入ってないと看板を見落としてしまいます。kannbann.jpgiriguti2.jpg
いつ見ても何処にも無い看板ですsobakusuri.jpg
瀟洒な入り口の暖簾をくぐり中に入ったら2持30分近くのせいかお客様は誰もおりませんでした。私一人アンティークな家具に囲まれた座敷に独りポツンと座りました。店名と同じ敦盛蕎麦を注文して暫くしたらそば湯が出て来ました。(私好みの薄い感じのそば湯です。)フッと見るとそば湯の入れ物に有次の名が
ヘェー今迄気がつかなかったなぁ〜aritugu.jpg(実は私の家の鰹節削り、包丁、まな板まで一式有次の製品です・今では錆だらけですが有次に持っていけば、何年経っても研いでくれます。)
蕎麦のメニューの裏は飲み物のメニューになっていました。menyu_.jpgIMG_2916.JPG
出汁と九条葱が来ました。出汁の味が濃い所為か卵の黄身と梅干しはどうしますか?と聞かれて卵は結構ですと断り梅干しだけにしてもらいました。dasi.jpg
九条葱の中に濃厚なダシを入れ梅干し(蜂蜜梅)を交ぜて潰し後は蕎麦を待つばかりです。soba1.jpg
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寒い時はダシの中の梅干しの甘酸っぱさがほど良い味加減になりました。今日は誰もいないので蕎麦の下の簀子を上げて下の湯を写して見ました。(蕎麦の下は9枡になっており湯がはって有り蕎麦の真下辺りは大きなスペースになって湯気がもうもうとしています。)

2009/12/4 金曜日

伊崎寺

Filed under: 景色・景観, 大人の楽しみ — makun @ 1:17:28

12月に入ったというのに小春日和の暖かい日に伊崎寺にお参りに行ってきました。入り口近くの牧場の馬も外に出ていました。____.JPG駐車場も1年前からはかなり整備されていますが、庫裏の大改修の為か材木の山です。
______0.JPG______1.JPG駐車場から約800m位の山道を歩きますが1年半前は木の根っ子がむき出しでそのうえに大きな岩がゴロゴロして歩きにくい事歩きにくい事、でも今は道に土を撒きかなり歩きやすくなりました。入り口付近の石のお地蔵さん?仏様?も高い所に移転してすっきりしました。______.JPG________.jpg____1.JPG
道程の中ほどまで来ると右前方に出迎え不動と書かれたの板きれが見えてきます。
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言い伝えに因ると役行者がここまで来たら猪と出会い猪に導かれて不動明王に会われたとか(現在の棹飛び堂内の大巌)参詣に来た人は此処で立ち止まり両手を合わせて通り過ぎていきます。
暫く歩いて行くと前方の方に工事中の建物が見えて来ました。かなり急な石段(自然石)を20段くらい降りると伊崎寺境内です。石段脇のちょっとした隙間に運搬車が置いてありました。(比叡山の僧侶仲間の餞別だそうです。)
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石段を降りてすぐにトイレが有りそのまま右に折れていくと工事中の庫裏の真ん前に出ます。____2.JPG
工事現場の中に木彫のお地蔵さんを発見!!お地蔵さんの顔を見ていたら天台ネットの一隅を照らすの中にある今日の一言のバナーに描いてあるお地蔵さんのそっくりに見えてきました。kiboriJPG.JPG
庫裏の前を通り過ぎて石段を数段上がると左手に荼枳尼天(だきにてん)を見て正面に本堂があります。dakinitenn.JPGhonndouJPG.JPG
本堂でお参りをしてから本堂の右脇に棹飛び堂と書いてある方に行きますと正面に地主神社がありま。叉本堂の右側の縁石の部分に大きめの穴があいており其処に小さな鳥居があります。鳥居の正面に小さなお不動様が安置してます。龍穴です。・言い伝えに因ると竹生島?(だと思った)と繋がっており龍が自由に出入りする穴だそうです。____2.JPGryuuJPG.JPGjisyuJPG.JPG
地主神社を通り過ぎてなだらかな石段を降りていくと棹飛び堂です。棹飛び堂のご神体は赤い色した大巌です。(この大巌まで役行者は猪に導かれて来たのです。大巌そのものがお不動様であると役行者が言ったとか!)________1JPG.JPG____________.JPG
棹飛び堂から琵琶湖を見ると12月に入ったのに珍しく穏やかな小春日和です。(普段は強風で寒いのは半島の突端だから当たり前ですね)あまり穏やかなのでエリとか沖ノ島を撮りました(因に日本国内で淡水の島で人が居住している唯一の島らしいです。)__________________1.JPG______________________2.JPG
古は伊崎半島も島だったらしいです(一説によれば島から地続きになったのは明治以降みたいです。)ですから山門は琵琶湖側に向いており棧橋まであります。____.JPG______.JPG
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今年の夏に友達とボートで参詣した時に琵琶湖側から撮った伊崎半島の遠景です。
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何年か前に一般人が無断で棹から飛び降りて死んだ人がいたって新聞に出ていたが、(それ以来棹の根元は鉄条網で入れないようにしてありましたが)居るんですねこうゆう不心得者が・・・
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2009/11/14 土曜日

お久ぶりです。

Filed under: 食べ歩き, 大人の楽しみ — makun @ 23:42:53

約1年半ぶりです。今回は東京出張での食事、夜行寝台列車での駅弁です。
用事は15:00頃終わり、昼食は浅草の並木の蕎麦を手繰りました。namiki2.jpgnamiki.jpg
天ざるを食べ終ってから写真を忘れた事に気がつき慌ててザルを追加注文しました。soba1.jpgsoba2.jpg
久々に関東の蕎麦を食べた感想はダシがしょっぱくて(塩辛くて)・・(通の人が少しきり汁をつけずに食して云々は通でなくても当然だと思います。)蕎麦自体は新蕎麦のせいもあり香り高く大変美味しく頂きました。叉、天ざるの時は温かいダシでざるの時は冷たいダシは感心しましたが塩辛いのが難点で山葵と蕎麦のみでたべました。(坂本の鶴喜の甘いダシに慣らされてしまったみたいです。かと云っても鶴喜のダシもほんの少しきりつけませんが・・・)
その後浅草寺にお参りをしてその界隈を徘徊しました。
浅草寺の仁王様は良く写真に載っておりますがその後の大わらじは少ないと思いますのでwaraji1.jpgwaraji.jpgwraji2.jpg
浅草の舟和本店で買った芋ようかんの賞味期限は翌9日なのに上野の13番線近くの売店では11日の賞味期限でした。(フーンきめの細かい事をさり気なくしてるなぁ〜

北陸が22:45頃に入線してきました。矢張り5〜6人くらいの人が撮影に訪れています。13ho-mu.jpg
夜行寝台列車は初めてですが最近の(昔のも知らないが)内部はコンパクトに出来てテレビ・BGM迄完備しています。hokuriku2.jpgnajibu1.jpgnaibu1.jpgnaibu2.jpgnaibu3jpg.jpgnaibu.jpgkippu.jpgシャワー利用券と個室のカードキーです。シャワールームに行ったら2室とも使用中でした。syawa.jpg
仕方ないので東京駅で予約注文した極附弁当を開きました。bennto1.jpg
2段重ねの豪華な弁当です。bennto2.jpgbennto3.jpgbennto4.jpgbennto5.jpgビールを飲みながらお品書きを読み下しましたが感想は宮城県の石井稔さんのお米を富士山麓の天然水を使用して炊き上げたご飯が1番旨かった。
結論は駅弁は(子供の頃からすり込まれた)崎陽軒の焼売弁当、横川の釜飯に勝る物は無しでした。

2008/6/22 日曜日

続笹百合

Filed under: 大人の楽しみ — makun @ 22:32:48

先日の笹百合が咲きました。4_1.jpg
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昨日からの大雨で心配しておりましたが、ひっそり、そう人知れずひっそりと咲いていました(こうゆう表現がぴったりの感じです。)但し香りは馥郁と上品な香りが周囲に漂っておりました。
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2008/6/15 日曜日

笹百合

Filed under: 大人の楽しみ — makun @ 23:55:04

先日、比叡山横川華芳谷の境内に自生する笹百合を分けてもらってきました。
(笹百合は5〜6年前も頂いたのですが、2年位すると咲かなくなりました。原因は気候の所為か土の所為かどっちだろう?とその時おばちゃんに聞いた事がありまして、じゃここの土を持って行きなさい!と云われてお山の土を鉢に移しておきました。)
去年も約束の日に行きましたら2〜3日前迄あった笹百合が猿に食べられてしまい断念した経緯があり心配しながらの訪問でしたが今年は鹿に猿にも食べられてない笹百合が15〜6株可憐な蕾をつけていました。(おばちゃん曰く・新芽のうちは鹿に蕾になると猿に食べられてしまう事が多いらしいのですが根(球根)は残っているのです。)
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今回は実生も頂いてきました。(実生(みしょう)とは、種子から発芽したばかりの植物のこと。子葉や第一葉のある時期を指し、一般にいう芽生えのこと。転じて種子から発芽させて新しい植物体(苗)を得ることをいい、また広義にはそうして得られる成長した植物体をも指す。出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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2008/6/14 土曜日

祇園 鹿六

Filed under: 食べ歩き — makun @ 21:18:17

久しぶりに京都にでましたので焼き肉の鹿六を紹介したいと思います。(私の知った当時は万福と云う名前でした。きっかけは祇園のホステスさんに紹介されて何度か同伴前のご飯食べに利用した記憶があります。)
 京都・祇園にふさわしい、昭和2年建造の町家造りの元料亭、その面影をそのままに残す家屋で最高のひとときをお楽しみください。ぐるなび・京都版より
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建物とか佇まいと云うか雰囲気は知った当時と全く同じでした(客層も同じようでしたが、祇園のホステスさんの同伴前の食事風景とか上役と女子社員etc・・・ただ昔と一寸違うかな?と思ったのは観光客風の女の子の3人連れかな?)
飲み物のメニューを見て変わったビールが有るので(京都限定の京都1497)注文して見ましたが私には余り美味しくなかった(頼りなげなビールでした。)
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葱のみじん切り塩が片面に乗っていると焼き具合の見当がつかなくて真っ黒に焦がしたり冷たかったり苦労しましたが素材そのものは良い所為か同伴者は美味しい美味しいの連発でした。締めは黒ゴマのお粥にキムチを頂きました。
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食事も終わりこの店の売りである二階に上り私と1人はコーヒーとフルーツタルトとお餅の3種をもう1人は焼酎の水割りとつまみを頼み3人して勝手な事を言い合いのんびりくつろぎました。14.jpg
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 思いっきり、日本の風情を楽しめながら食べれる、食材もサービスも、レベルは高い。 
その分料金もちょっと張りますが、その高さを感じさせないのは昔も今も変わりません。コストパフォーマンスが良いということでしょう。

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