2010/4/21 水曜日

続/東海道・中山道の旅(鸚鵡籠中見聞録より転載。05.11月分)

Filed under: 大人の楽しみ,景色・景観 — makun @ 22:23:21

中山道走行中
日本橋、板橋、蕨、浦和、大宮、上尾、桶川、鴻巣、熊谷、深谷、
途中、桶川、鴻巣、深谷の道路沿いの道標です。
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本荘、新町、倉賀野、高崎、板鼻、安中、松井田、坂本、
松井田宿は米宿とも呼ばれ繁栄した。
坂本宿は碓氷峠の麓である事から坂本と名付けられた。   
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中山道

軽井沢、沓掛、追分、小田井、岩村田、塩名田、八幡、望月、芦田、長久保、和田
芦田宿と和田峠
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和田峠を過ぎるといよいよ下諏訪です。
下諏訪は、諏訪大社下社の門前町として繁栄し難所和田峠、甲州街道との分枝そして中山道唯一の温泉場として賑わった。
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下諏訪を過ぎたら塩尻、洗馬、本山、贄川、奈良井、薮原、宮ノ越、福島、上松、須原、野尻、三留野、妻籠、馬籠、落合、中津川、大井、
オオシテ(漢字が出てこない)細久手.御嵩
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妻籠はひなびた宿であった。明治以降も時代に取り残されてしまった故に多くの遺構を今日に伝え、
長野県の明治100年事業で町並みが復元され今日では重要建造物保存に指定されている。
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妻籠の本陣のなかにあった。
珍しい座敷の大名用?のトイレ(昔は雪隠せっちん)と湯殿
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御嵩は願興寺の門前町です。
御嵩の資料館に行ったら休館日(>_< )
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御嵩を過ぎると伏見、太田、鵜沼、加納、河渡、美江寺、赤坂、垂井、関ヶ原、今須、柏原、醒井、番場、鳥居本、高宮、愛知川、武佐、守山、草津。草津で東海道と一緒になります。
写真は柏原
柏原は艾うどんがあって昆布を艾に見立てて上に赤いショウガを乗せて火に見立てるうどんが名物と書いてあったのでうどん屋を探したが夜になったせいもあり見つからなかったのが残念(T_T) まぁ〜滋賀県だし折りを見て探します。
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東海道・中山道の旅(鸚鵡籠中見聞録より転載。05.11月分)

Filed under: 大人の楽しみ,景色・景観 — makun @ 17:30:33

瀬田唐橋から出発しました。
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土山の本陣跡です。
土山宿は、京都、大津、草津、水口、土山宿です。
土山の地名は中世甲賀五十家の一つ土山氏がこの地を治めたのが由来らしいです。
難所の鈴鹿峠を控え旅人で賑わった。
「飯盛りなし、宿の女の袖を引き、その夜の伽とする也」とあります。

岡崎宿

亀山、庄野、石薬師、四日市、桑名、宮、鳴海、知立、岡崎で岡崎に来ました。
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1542年12月16日、岡崎城内で産声を上げたのが徳川家康です。
岡崎藩は代々五万石でも「五万石でも岡崎様はお城下まで船が着く」と唄われ舟運が盛んであった。

「岡崎女郎衆は良い女郎衆、揚げ代二朱也.五百文もあり」とある

袋井宿
妙日寺、日蓮の父、貫名重忠の墓と供養塔が在る
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Posted by makun at 15:34:23 │東海道&中山道の旅
2005-11-18

袋井宿は日本橋、京のいずれから数えても27番目と謂う丁度真ん中の宿です。
「この宿の飯盛り女も外の宿にかわる事なし五百文也」とある

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御油宿

赤坂、御油と来ます。
「御油に赤坂吉田がなくば何の江戸通い」(参勤交代の武士編)と唄われ「揚げ代は五百文と三百文あり」とある
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三島宿

吉田、二川、白須賀、新居、舞阪、浜松、見附、袋井、掛川、日坂、金谷、島田、藤枝、岡部、府中、はぁ〜・・・
江尻、興津、由比、蒲原、吉原、原、沼津ようやく三島。どっこいしょと。。。
箱根峠を無事越えた人々は「山祝い」として祝杯を上げた。三島大社の参拝者もあり多いに賑わった。
「飯盛り女郎五百文いにしえより名高し」とある.
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箱根は小田原藩が管轄した

日本橋
箱根、小田原、大磯、平塚、藤沢、戸塚、保土ケ谷、神奈川、川崎、品川、日本橋・・・お疲れさまでした。
(車のナビチャンが空いている道を選び藤沢以後は東海道を通らず、私も疲れていたし関東生まれなもので結構馴染みがあるものでつい、
いいか!って飛ばしてしまいました
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江戸時代の旅

江戸時代の旅と云っても江戸時代が300年近くあるし貨幣価値が最初と終わりではかなり違うと思いますが余り難く考えないで下さい。
 武州荏原郡喜多見(世田谷区)に国四郎(百姓)が伊勢に出かけた。(弘化2年、1845年)1月22日出発、伊勢参りのあと大阪、宮島
(広島県)岩国(山口県)京都、琵琶湖等を見物して4月22日帰った時の費用(名物の飲食、土産、芝居見物、見せ物見学を全て入れて)
が5両2分・・・1両が10万で55万くらい
庶民が泊まる宿は200文くらい(¥5,000)因みに飯盛り女の相場も200文。
 江戸時代の川柳 亭主の旅日記を見た女房が ※旅日記、この二百はえ、二百はえ
旅籠は売店がない、代わりに宿に物売りが来る  14〜5才の前髪(少年)がお煙草入りませんか?楊枝(ようじ、ハブラシの事)歯磨き
(歯磨き砂)お鼻紙はいりませんか?
別の物売りが焼酎は要りませんか?白酒あがりませんか?この焼酎は脚に吹きかけ疲れを取る事もする。
それに座頭の按摩が来る寄付の勧進に来る瞽女が三味線を鳴らして伊勢音頭を唄う・・・と賑やかだったらしい

江戸時代の旅続き

普通、江戸からだと江の島、鎌倉、箱根七湯等一週間ぐらいが多かった。これなら一両もあれば充分に贅沢な旅を楽しめた。
※ 七つ立ち は午前四時頃で旅人は大体1日十里ぐらい歩いたから朝は早い。
※江戸から京都。125里余り13〜15日くらいの日程。
※草鞋一足20文、※ 「あい お世話」茶店を出る時、茶だけ飲んで立つときは茶わんに1文入れる事になっていた。
※普通の遊女は店先に並んで客を待つ「張見世」張見世で気に入った遊女を選び揚げ代も高くて2分(4分で1両)
か1分(1両で10万、単純計算で5万か25,000)無論それ以下でも遊べた。
※因みに弥次喜多の北さんは華水多羅四郎(はなみずたらしろう)の抱えの色子だから喜多八は陰間上がりだった。
(陰間・色を売る少年)※ 川柳にも遊女よりあわれ陰間の年季明け(少年の僅かな間だけ商売になるがやがて、
髭の剃跡が青々してくる、筋骨たくましくなるとグロテスクになるばかり、
そうなると陰間でなく化け間になる。寺院関係者の愛好者が多いらしくそのつてで、寺男やら武家の中間か物売りになるしかない。
※陰間の事を筍だと云う何故なら成長したら喰えなくなる。 一般に江戸庶民は男色に大らかだった。
※東海道中膝栗毛は膝を栗毛の馬に例えた洒落です。
※木賃宿  食料の持ち込みでそれを焚く薪代を払うから。

2010/4/17 土曜日

菊御膳 (鸚鵡籠中見聞録より転載)

Filed under: 食べ歩き — makun @ 22:31:05

菊御膳
今日は西教寺の菊御膳を紹介します。(と言っても私自身も初めてです。)
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西教寺に菊御膳を申し込んだ時に本堂が良いですか?イスで食べられる食堂にしますか?
と聞かれて食堂にして貰いました。
西教寺の研修道場の食堂に菊御膳が用意してありました。
流石に西教寺の食堂です。仏像が見守っています。
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さて肝心な料理です。
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菊酒は初めてですが、(昔の重陽の節句に飲むのと同じかな?
ちょっとググって見ました。
菊酒とは重陽の節句(旧暦の九月九日)いわゆる「菊の節句」に飲む菊の花を浸した
日本酒のこと。
花札の絵に菊と酒盃がセットで描かれているのは「菊酒」を表現したもので、「桜に幔幕」
の札とで「花見酒」、「月」の札とで「月見酒」と日本の行事にまつわる役を作る札。
製法
江戸時代の資治通鑑には二種類の製造法が紹介されている。
一つ目は、菊の花びらを浸した水で仕込みをすると言うもので、
有名な加賀の菊酒はこの製法で作る。
二つ目は、現在梅酒などを造る時の要領で、氷砂糖と一緒に寝かせた菊の花びらを
焼酎に漬け込むもの。眼病や婦人病に効果があると、江戸時代に広く薬酒として愛された。
そのほか、原料となる米に菊の花の香りを移すものなど、諸説ある。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より

飲んで見ると甘〜い梅酒みたいな味がしましたから、製法その2ですね。
ほのかに菊の香りがしました。
菊御膳の感想は「菊のなます」と「菊の白あえ」と「菊寿司」が美味しかったです。
特に菊寿司は、ちりめんご飯の変形でした。(私がちりめんご飯が好きな所為もある。)
「胡麻豆腐の菊あんかけ」は胡麻豆腐のはこくが有って美味しかったのですが
あんかけがちょと辛すぎました。
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西教寺の箸をいただいて帰りました。
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帰りにユーモラスな龍に挨拶をして色ずき始めた参道を愛でながらゆっくり秋を
満喫しました。
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閑話休題、茶摘み(鸚鵡籠中見聞録より転載)

Filed under: 大人の楽しみ,景色・景観 — makun @ 19:48:09

閑話休題、茶摘み
 日吉茶園で茶摘み行事に遭遇しました。
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この枝折り戸が空いているのを初めて見ました。
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日吉茶園:延暦寺を開いた最澄(さいちょう)が、唐から持ち帰った茶種を植えたのに始まる日本最古の茶園と伝えられ、園内には大正10年(1921)日吉大社が建立した由来碑があります。嵯峨天皇に弘仁六年(815)最澄と同道した留学僧の大僧都永忠によって茶が献じられたと伝えられる。毎年摘まれるお茶は茶筒で2、3缶ほど。5月に摘まれ、6月に比叡山延暦寺の浄土院で行われる「長講会(ちょうこうえ)」や、翌年4月、日吉大社の山王祭の献茶に使用される。「日本最古の茶園」説にちなみ、同社の「もみじ祭」では毎年、裏千家による献茶祭が行われる。
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帰りに日吉茶園に寄ったら枝折り戸が閉まっておりました。
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2010/4/12 月曜日

続雄琴城、和田秀純 (鸚鵡籠中見聞録より転載)

Filed under: 大人の楽しみ — makun @ 19:34:56

鸚鵡籠中見聞録に書いてあった記事です。(ぐうたらな者でブログ2つは負担です)
和田秀純をグッグって見たら出ていましたのでここに記しておきます。(興味のない方はご免なさい。m(_ _)m )
和田(佐々木)氏
 近江国甲賀郡和田村に住した和田氏には、佐々木六角氏から分かれたとする説があり、その子孫がいまに近江国の旧家として続いているのである。すなわち、佐々木六角政頼の三男高成の次男定秀が和田を名乗ったとし、その曾孫に伊賀守惟政が出たとするものである。
 定秀は神崎郡和田に住し、和田山城主となり和田を名乗った。孫の高盛が、神崎郡和田から甲賀郡の伊勢国境に和田に移り住んだようである。高盛には三人の子があって長男が和田城主となり、その子が将軍義昭を援けた惟政であった。三男は中務大輔秀純となのり、六角義秀の近臣となり、のち義秀から志賀郡の雄琴城を賜わり、志賀郡の旗頭を命じられた。
 雄琴は北国や北近江から比叡山や坂本、さらに大津・京都に通じる北国街道の要地であり、琵琶湖湖西の水上を抑える重要な地点でもあった。このため、六角氏は早くからこの地に城砦を築いて西近江を固めるとともに、上洛や帰国の道筋を安全たらしめ、さらには将軍家の後ろ楯となって幕府や京都の治安を担っていたことから、雄琴を中心として南の坂本、北の堅田から京洛に通じる道を確保していたのである。
 それゆえに、六角義秀は信任する和田秀純を、雄琴城に入れて守備をさせたのである。その後、織田信長が将軍義昭を将軍に奉じるという名目で、近江に大軍を進めてくると義秀以下佐々木六角の旗頭たちは信長に協力することとなり、ついには信長の支配下となった。
 ところが、箕作城主の六角義賢(承禎)は、信長にあくまで抵抗して滅ぼされた。それ以後は佐々木家の旗頭たちは、六角義秀に仕えるとともに、信長の陪臣という立場となった。なかでも雄琴城主の和田秀純は、坂本城主となった明智光秀の支配下にも従うという、複雑な立場となっていった。
 その後、光秀が謀叛を起こして、信長を京都の本能寺に攻め殺した時に秀純は、光秀の味方には加わらなかった。そして、光秀を討ち滅ぼして、信長の仇を報じた豊臣秀吉に従った。そして、秀吉よりも先に秀純は死去した。
 秀純の嫡子は信盛で、六角義郷に仕えたが、六角氏が衰微したため、岐阜城主で信長の孫にあたる織田秀信に仕えた。慶長五年関ヶ原の合戦が起こり、秀信が西軍石田三成に与したため、東軍に岐阜城が攻め落とされたとき、信盛は奮戦して討死した。家は弟の正盛が継いだ。
 正盛は兄と同じく弓術に優れた武士であったが、佐々木氏が滅亡し、徳川氏の天下となり一国一城の令が布かれたため、雄琴城は廃城となった。そして、正盛は世に出る機会もなく郷士となって、六十七歳で没したという。
 その後、和田氏は雄琴に住して、江戸時代には膳所城主の本多氏、大構城主の分部氏などの知遇を得るなどして、一族は繁栄して、いまに多くの古文書や武具などと併せて家名を伝えている。
 足利幕府最後の将軍義昭に仕えた惟政を出した和田氏が、清和源氏満政流なのか、ここに記したように佐々木六角氏流なのか、その真偽は分からない。しかし、それぞれの家に伝わっている説が、正しいと信じる限り、それが正しいのだろう。(武家家伝 和田秀純で検索
お墓には、和田中務秀純・後側は慶長8年12月3日卒?(秀純は、光秀の味方には加わらなかった。そして光秀を討ち滅ぼして、信長の仇を報じた豊臣秀吉に従った。そして、秀吉よりも先に秀純は死去した。古文書には本当に整合性が無い)と彫ってあつたが和田家の古文書にでも書いて有り例の叡山高校教諭の方が彫ったのかも?と想像をたくましくしております。江戸初期(1603年)から彫られていたら風化して読めないかも?と思ったりして。)
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雄琴城主!和田秀純 (鸚鵡籠中見聞録より転載)

Filed under: 大人の楽しみ — makun @ 18:48:53

鸚鵡籠中見聞録に書いてあった記事です。(ぐうたらな者でブログ2つは負担です)
以前聞いた和田一族の墓の見学&屋敷跡が第一目的の散歩です。何故、和田一族の事が気になったかと云うと何気なしに読んだ本に出ていたからです。
最近、比叡山高校教諭和田頴氏方で出てきた古文書で明らかになった。
 和田さんの先祖和田秀純は現在の雄琴方面に勢力をもっていた土豪で、
これを味方にひき入れた光秀が和田秀純あてに、:::延暦寺攻撃は決して
おどしではない。・・・旨の事を書き送っている。この光秀の手紙が出てきた事に
ついては、わたしの叡山ゆきの前後に新聞に出た。
司馬遼太郎(叡山の諸道より抜粋)
何故か雄琴の土豪という表現が親しみを感じて(雄琴が生活の中心です!)出来る限り調べて見たくなりました。(急に郷土史家です。)
和田家文書(わだけもんじょ)雄琴所有者個人所在地大津市雄琴二丁目時代室町
和田家は雄琴に勢力をはった土豪で、室町時代近江守護六角家に仕えた家柄というが、
詳細は不明である。明智光秀が和田秀純に宛てたこの三通の書状は、
山門焼き討ちに関る内容から、元亀2年(1571)・同3年のものと考えられる。
なかでも、9月2日付けの書状からは、山門焼き討ちを前に光秀が行った雄琴の和田氏や
仰木の八木氏への工作が知られ、『信長公記』や『言継卿記』など記録や伝聞資料でしか
知られていなかった山門焼き討ちを伝える一次資料である。(大津市指定文化財)
江源武鑑「江源(こうげん)」とは「近江源氏」の略です。 
江源武鑑の信憑性
内容は見ていただけばわかりますが、通説との年号のくい違いは結構あります。
また聞いたことのないような人物も多数登場します。そのほか天狗や妖怪の類、超常現象なども
頻繁に現れ、おや?と思うような場面も何度もあります。ただこういったことは古文書にはよくあることです。(と云う事ですからあまりかたく考えないで下さい。)
元亀元年六月の江北姉川合戦について目賀田摂津守入道頼鬼、浅井土佐守入道時雲の
両名が日記に記した内容である。
元亀元年十一月小二十四日
味方では雄琴城主和田中務丞秀純が深入りして負傷し十死一生の状態であるとのことである。
屋形義秀公はこれをお聞きになって和田の働きに感じられ即座に自筆の感状を与えられる。
この和田の働きとは今城の二の丸に乗り込んで敵十二人と一人で戦い、
十四ヶ所も傷を負いながらついに味方の陣に帰ったということである。
元亀四年(癸酉) 今年の冬改めて天正元年と号す 八月小
十六日 信長が志賀郡の城々、雄琴、堅田、和爾、木戸、比良五ヶ所の城を攻める。
観音寺城から援軍を送るのは困難であるので落城する。
五ヶ所の城主は雄琴城が和田中書秀純三百騎、堅田城が山田民部少輔忠宗八百騎、
和爾城が和爾丹後守秀氏四百騎、木戸城が木戸越前守秀資三百騎、
比良城が田中左衛門尉二百騎である。
これらが城に立て篭もるが信長が四万余騎にて戦うと木戸越前守、
田中左衛門の両人が寝返り、さらに残りの城は屋形の援軍を待っても湖上からでは
遅くて間に合わないため開城して船で観音寺城へ退却する。」
これにより信長は志賀郡を手に入れ五ヶ所の城に家来等を配置する。
等々の記述を見るとどうやら和田秀純という人はかなりの豪傑で部下が約300騎位ですね。!!
そして、最初は浅井長政に味方してその後明智光秀の家臣になりその後はどうなったのかは分かりませんがお墓を見る限りでは没年が慶長8年12月3日となっています。(慶長8年の2月には徳川家康が征夷大将軍の宣下を受けています)
歴史の面白さと言ったら良いのか?最初は小谷城の浅井長政の勢力下にいて、織田家と戦いその後、明智光秀の旗下に入り叡山の焼き打ちに参加して、没年が慶長8年という事は明智光秀の没落後はどんな方法で連綿と子孫を残したのか?そしてその子孫が約400年後には叡山高校の教諭になるなんて・・・和田秀純の家を残す為の苦労と400数十年後の皮肉な結果を思い巡らし妙に今日の明るい天気が眩しかった。

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