2011/10/30 日曜日

伊崎寺開眼法要!!

Filed under: 大人の楽しみ — makun @ 21:30:55

10月28日はご本尊の修復が終わり開眼法要です。去年は庫裏の落慶法要でしたので2年続きの法要で阿闍梨様も大変です。(寄付が4,470口とかで修復は松本明慶大仏師との事です。)

午前10時過ぎに伊崎寺に着きました。

 

 

 

 

受付けを済ましてから先ず本堂に行きました。本堂には本日の日程が書いて有ります。

最初にご本尊に挨拶をしようと思ったら白い幕がかかっておりました。

 

 

 

 

 

11時になりましたら、阿闍梨様が入堂になり開眼法要が始りました。20分くらい祈りした後お加持を受け内陣の拝観してから、お弁当を受け取り三々五々思い思いの場所でお昼です。(テントは人が一杯なので、天気も良いので山門の方に行き湖岸迄降り琵琶湖を眺めながらお昼のお赤飯を頂きました。)

食事を終えてから、今日は余り時間がないので、唄の奉納と護摩供を遠慮して!棹飛び堂に挨拶をして帰る事にしました。

 

 

 

 

 

 

帰りは迎え不動と入り口のお地蔵様に挨拶をして帰路につくのはいつもの通りです。

 

 

 

 

 

 

毎月、お地蔵様、迎え不動、本堂の仏様の仏様、棹飛び堂、境内の全ての仏様に御華を供えてくれる、明石の○○さん有り難う御座います。本当に頭が下がります。

 

 

2011/3/13 日曜日

話題のチェーンメール

Filed under: 大人の楽しみ,景色・景観,未分類 — makun @ 14:33:43

転送します
関西電力に勤務している友人の友人から送られてきました。
ご協力頂ける方はよろしくお願い致します。
以下が内容です。
————–

関西地区にお住まいのみなさん。東北三陸沖大地震に伴い、関西電力が東北電力への電力提供を始めました。

少しの節電でも立派な支援になります。電子レンジや炊飯器など、普段さしっぱなしのコンセントを今日だけでも抜き、一人一人が出来る節電のご協力をお願い致します。

このメールをできる限り広め、節電による送電の支援が出来ればと思いますのでご協力よろしくお願い致します。

折り返し、知人からこんなメールが来ました.
※善意のメールで良い感じがしますが、あまり沢山の人が大量に転送するとサーバーに負荷がかかり
、最悪の場合ダウンします。
緊急の連絡の妨げになるので
災害時には特にチェーンメールに注意しましょう。
と、テレビやネット上で言ってますよ。
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2011/3/11 金曜日

写メ日記

Filed under: 大人の楽しみ — 管理者 @ 12:47:25

この度、スクエア娘のプライベートの一端が覗ける写メ日記を始めました.
こちらの方も宜しくお願い致します。shamenikki.jpg

2011/1/7 金曜日

元旦の伊崎寺

Filed under: 大人の楽しみ — makun @ 15:17:50

 今年も元旦は伊崎寺参りに行ってきました。
昨日からの雪で一寸心配でしたが、大津程は降っておりません。入り口にある牧場に目を向けたら馬が1頭佇んでいました。bokujyou.JPG
駐車場はお護摩の時間には早過ぎる所為かまばらです
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入り口のお地蔵様も正月用の餅花が飾っています。
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参道は余り雪が有りません大分雪かきをした事でしょう。出迎え不動様の所まで歩いても、寒くてか砂利のせいか道は泥濘んでおりません。
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徒歩で約20分くらい歩いたら新築したばっかりの庫裏が見えてきました。3人の小僧さん達が雪かきをしています。
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いつもなら飛び出して戯れてくれる伊崎のアイドルが動きません。
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本堂の方から見た庫裏です。雪かきは大変だったでしょう(駐車場から参道(約1㌔)経由境内迄)
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未だ12時前ですので、本堂には人がまばらです(シャターチャンス)
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格子の合間にカメラを入れて内陣も写してしまいました。
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護摩供が終ったら今日はお節、雑煮、食後は人数が多いせいか煎茶です。帰りにお年玉と張子の兎と暦を頂戴して帰りました.
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2010/10/29 金曜日

伊崎寺落慶!!

Filed under: 大人の楽しみ — makun @ 20:53:14

______.jpg平成22年10月28日にようやく落慶法要でした。1年8ヶ月位ですか?本当に漸くです、工事の間、上原行照阿闍梨様、お弟子さん達はさぞ窮屈な生活を強いられたと思います。(本当にご苦労様でした。)
当日は平日の小雨交じりの天気でしたが待ちかねた信者の方々が大勢詰めかけました。

急坂がなだらかなコンクリートの坂になり昔はトイレのあった場所の真ん前が受付けで沢山の人が(事前に申し込んだ用紙の)確認をしておりました.
____1.jpg受付けを済まし本堂の方に行きましたら座敷は立錐の余地もありませんので仕方ないので縁側の緋毛氈の所に窮屈な姿勢で座りました。
11時少し前から尺八の演奏が始りましたが(演奏者、曲目等を放送していたが全然聞こえませんでした。)が流石に尺八が始りますとシーンとしました.
____.jpg____2.jpg尺八の演奏後に導師は井深大僧正(?放送していたが良く聞こえない)で阿闍梨様と比叡山の僧侶約10名前後が一緒に入堂してきました。声明って云うんですか迫力と臨場感に溢れて厳かな気持ちになります.(写真など撮っている雰囲気じゃありません)
そして井深大僧正(?)のお経と諸々の儀式も終わり(見えなくてお経の声だけが聞こえてました)上原阿闍梨様のご挨拶(甘露の法雨の文言が心に残りました)で出堂しました。最後に尺八の演奏で午前の部は終りです。お昼の弁当を湖岸に設定してあるテントと庫裏近くのテントに分散して頂きました。
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その後1時30分から護摩供が始りましたが狭い本堂は人、人、人で全く身動きも出来ませんでしたが流石にシーンとして厳かな雰囲気でいつもの護摩供と一緒でした.
普段でしたらその後棹飛び堂にお参りしてお茶の時間ですが今回はこれで全て終了らしいです。
皆、それぞれ帰路につきましたが阿闍梨様は庫裏の前で皆さん全員に挨拶の声を掛けておりました。(勿論私にも!)
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車いすの方まで参拝に来ました.
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家に帰ってからお土産を確かめて見ましたがいつものお線香とお供物とソースそれに内祝いと書かれた箱の中は紅白饅頭、挨拶状と記念品でした。
記念品は松本華明氏(大仏師松本明慶氏の奥方?)筆のお不動様矜羯羅童子制多迦童子でした。裏は阿闍梨様の梵字(種字?)カーン(カンマン?)です。
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2010/6/7 月曜日

清和四條流

Filed under: 大人の楽しみ — makun @ 16:34:23

清和四條流の 家元襲名披露に参列して来ました。場所は日吉大社の西本宮で盛大にそして厳粛におこなわれました。正直言って包丁式なんていう代物は初めてなので興味津津です。
当日は(6月2日)眩しいくらいの晴天で屋外のイベントには最高の日です。西本宮の拝殿の前には滋賀県?の料理関係者の展示品がずらっと並んでありました。tennji.jpg
1番左が大将の作品で隣が1番弟子の松田氏(いつも厨房にいます。)その隣がいつもカウンターにいる井上氏の作品です。拝殿の周りにテントが張ってあり椅子が並べられており関係者席、一般者席と張り紙が張ってあり一般者に座り開始の11時迄待っておりますと、緊張した清元の大将を先頭に5〜6名の烏帽子直垂の平安時代の衣装に纏われた清和四條流の一団が入場してきました。おもむろに拝殿に昇殿し緊張の中に包丁式が始まりました。(6名の雅楽演奏がいちだんと高く聞こえてきます。・・余りにも天気が良いので拝殿の様子は遠い世界のようでした。(・_・;)
厳粛の中で緊張した面持ちで清元の大将の包丁式が始まりました。houtyousiki1.jpghoutyousiki2.jpg
包丁式の後、清和四條流35代家元の継承式を日吉大社の宮司主導により取り行われました。keisyousiki1jpg.jpg
その後清元の大将、否35代家元清本健盛の礼の挨拶で締括りです。aisatujpg1.jpg
引き出物と家元と書かれた看板。私は参加しなかった祝賀会の様子です。hikidemono1.jpghikidemono2.jpg
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2010/4/21 水曜日

続/東海道・中山道の旅(鸚鵡籠中見聞録より転載。05.11月分)

Filed under: 大人の楽しみ,景色・景観 — makun @ 22:23:21

中山道走行中
日本橋、板橋、蕨、浦和、大宮、上尾、桶川、鴻巣、熊谷、深谷、
途中、桶川、鴻巣、深谷の道路沿いの道標です。
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本荘、新町、倉賀野、高崎、板鼻、安中、松井田、坂本、
松井田宿は米宿とも呼ばれ繁栄した。
坂本宿は碓氷峠の麓である事から坂本と名付けられた。   
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中山道

軽井沢、沓掛、追分、小田井、岩村田、塩名田、八幡、望月、芦田、長久保、和田
芦田宿と和田峠
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和田峠を過ぎるといよいよ下諏訪です。
下諏訪は、諏訪大社下社の門前町として繁栄し難所和田峠、甲州街道との分枝そして中山道唯一の温泉場として賑わった。
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下諏訪を過ぎたら塩尻、洗馬、本山、贄川、奈良井、薮原、宮ノ越、福島、上松、須原、野尻、三留野、妻籠、馬籠、落合、中津川、大井、
オオシテ(漢字が出てこない)細久手.御嵩
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妻籠はひなびた宿であった。明治以降も時代に取り残されてしまった故に多くの遺構を今日に伝え、
長野県の明治100年事業で町並みが復元され今日では重要建造物保存に指定されている。
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妻籠の本陣のなかにあった。
珍しい座敷の大名用?のトイレ(昔は雪隠せっちん)と湯殿
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御嵩は願興寺の門前町です。
御嵩の資料館に行ったら休館日(>_< )
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御嵩を過ぎると伏見、太田、鵜沼、加納、河渡、美江寺、赤坂、垂井、関ヶ原、今須、柏原、醒井、番場、鳥居本、高宮、愛知川、武佐、守山、草津。草津で東海道と一緒になります。
写真は柏原
柏原は艾うどんがあって昆布を艾に見立てて上に赤いショウガを乗せて火に見立てるうどんが名物と書いてあったのでうどん屋を探したが夜になったせいもあり見つからなかったのが残念(T_T) まぁ〜滋賀県だし折りを見て探します。
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東海道・中山道の旅(鸚鵡籠中見聞録より転載。05.11月分)

Filed under: 大人の楽しみ,景色・景観 — makun @ 17:30:33

瀬田唐橋から出発しました。
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土山の本陣跡です。
土山宿は、京都、大津、草津、水口、土山宿です。
土山の地名は中世甲賀五十家の一つ土山氏がこの地を治めたのが由来らしいです。
難所の鈴鹿峠を控え旅人で賑わった。
「飯盛りなし、宿の女の袖を引き、その夜の伽とする也」とあります。

岡崎宿

亀山、庄野、石薬師、四日市、桑名、宮、鳴海、知立、岡崎で岡崎に来ました。
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1542年12月16日、岡崎城内で産声を上げたのが徳川家康です。
岡崎藩は代々五万石でも「五万石でも岡崎様はお城下まで船が着く」と唄われ舟運が盛んであった。

「岡崎女郎衆は良い女郎衆、揚げ代二朱也.五百文もあり」とある

袋井宿
妙日寺、日蓮の父、貫名重忠の墓と供養塔が在る
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Posted by makun at 15:34:23 │東海道&中山道の旅
2005-11-18

袋井宿は日本橋、京のいずれから数えても27番目と謂う丁度真ん中の宿です。
「この宿の飯盛り女も外の宿にかわる事なし五百文也」とある

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御油宿

赤坂、御油と来ます。
「御油に赤坂吉田がなくば何の江戸通い」(参勤交代の武士編)と唄われ「揚げ代は五百文と三百文あり」とある
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三島宿

吉田、二川、白須賀、新居、舞阪、浜松、見附、袋井、掛川、日坂、金谷、島田、藤枝、岡部、府中、はぁ〜・・・
江尻、興津、由比、蒲原、吉原、原、沼津ようやく三島。どっこいしょと。。。
箱根峠を無事越えた人々は「山祝い」として祝杯を上げた。三島大社の参拝者もあり多いに賑わった。
「飯盛り女郎五百文いにしえより名高し」とある.
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箱根は小田原藩が管轄した

日本橋
箱根、小田原、大磯、平塚、藤沢、戸塚、保土ケ谷、神奈川、川崎、品川、日本橋・・・お疲れさまでした。
(車のナビチャンが空いている道を選び藤沢以後は東海道を通らず、私も疲れていたし関東生まれなもので結構馴染みがあるものでつい、
いいか!って飛ばしてしまいました
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江戸時代の旅

江戸時代の旅と云っても江戸時代が300年近くあるし貨幣価値が最初と終わりではかなり違うと思いますが余り難く考えないで下さい。
 武州荏原郡喜多見(世田谷区)に国四郎(百姓)が伊勢に出かけた。(弘化2年、1845年)1月22日出発、伊勢参りのあと大阪、宮島
(広島県)岩国(山口県)京都、琵琶湖等を見物して4月22日帰った時の費用(名物の飲食、土産、芝居見物、見せ物見学を全て入れて)
が5両2分・・・1両が10万で55万くらい
庶民が泊まる宿は200文くらい(¥5,000)因みに飯盛り女の相場も200文。
 江戸時代の川柳 亭主の旅日記を見た女房が ※旅日記、この二百はえ、二百はえ
旅籠は売店がない、代わりに宿に物売りが来る  14〜5才の前髪(少年)がお煙草入りませんか?楊枝(ようじ、ハブラシの事)歯磨き
(歯磨き砂)お鼻紙はいりませんか?
別の物売りが焼酎は要りませんか?白酒あがりませんか?この焼酎は脚に吹きかけ疲れを取る事もする。
それに座頭の按摩が来る寄付の勧進に来る瞽女が三味線を鳴らして伊勢音頭を唄う・・・と賑やかだったらしい

江戸時代の旅続き

普通、江戸からだと江の島、鎌倉、箱根七湯等一週間ぐらいが多かった。これなら一両もあれば充分に贅沢な旅を楽しめた。
※ 七つ立ち は午前四時頃で旅人は大体1日十里ぐらい歩いたから朝は早い。
※江戸から京都。125里余り13〜15日くらいの日程。
※草鞋一足20文、※ 「あい お世話」茶店を出る時、茶だけ飲んで立つときは茶わんに1文入れる事になっていた。
※普通の遊女は店先に並んで客を待つ「張見世」張見世で気に入った遊女を選び揚げ代も高くて2分(4分で1両)
か1分(1両で10万、単純計算で5万か25,000)無論それ以下でも遊べた。
※因みに弥次喜多の北さんは華水多羅四郎(はなみずたらしろう)の抱えの色子だから喜多八は陰間上がりだった。
(陰間・色を売る少年)※ 川柳にも遊女よりあわれ陰間の年季明け(少年の僅かな間だけ商売になるがやがて、
髭の剃跡が青々してくる、筋骨たくましくなるとグロテスクになるばかり、
そうなると陰間でなく化け間になる。寺院関係者の愛好者が多いらしくそのつてで、寺男やら武家の中間か物売りになるしかない。
※陰間の事を筍だと云う何故なら成長したら喰えなくなる。 一般に江戸庶民は男色に大らかだった。
※東海道中膝栗毛は膝を栗毛の馬に例えた洒落です。
※木賃宿  食料の持ち込みでそれを焚く薪代を払うから。

2010/4/17 土曜日

閑話休題、茶摘み(鸚鵡籠中見聞録より転載)

Filed under: 大人の楽しみ,景色・景観 — makun @ 19:48:09

閑話休題、茶摘み
 日吉茶園で茶摘み行事に遭遇しました。
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この枝折り戸が空いているのを初めて見ました。
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日吉茶園:延暦寺を開いた最澄(さいちょう)が、唐から持ち帰った茶種を植えたのに始まる日本最古の茶園と伝えられ、園内には大正10年(1921)日吉大社が建立した由来碑があります。嵯峨天皇に弘仁六年(815)最澄と同道した留学僧の大僧都永忠によって茶が献じられたと伝えられる。毎年摘まれるお茶は茶筒で2、3缶ほど。5月に摘まれ、6月に比叡山延暦寺の浄土院で行われる「長講会(ちょうこうえ)」や、翌年4月、日吉大社の山王祭の献茶に使用される。「日本最古の茶園」説にちなみ、同社の「もみじ祭」では毎年、裏千家による献茶祭が行われる。
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帰りに日吉茶園に寄ったら枝折り戸が閉まっておりました。
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2010/4/12 月曜日

続雄琴城、和田秀純 (鸚鵡籠中見聞録より転載)

Filed under: 大人の楽しみ — makun @ 19:34:56

鸚鵡籠中見聞録に書いてあった記事です。(ぐうたらな者でブログ2つは負担です)
和田秀純をグッグって見たら出ていましたのでここに記しておきます。(興味のない方はご免なさい。m(_ _)m )
和田(佐々木)氏
 近江国甲賀郡和田村に住した和田氏には、佐々木六角氏から分かれたとする説があり、その子孫がいまに近江国の旧家として続いているのである。すなわち、佐々木六角政頼の三男高成の次男定秀が和田を名乗ったとし、その曾孫に伊賀守惟政が出たとするものである。
 定秀は神崎郡和田に住し、和田山城主となり和田を名乗った。孫の高盛が、神崎郡和田から甲賀郡の伊勢国境に和田に移り住んだようである。高盛には三人の子があって長男が和田城主となり、その子が将軍義昭を援けた惟政であった。三男は中務大輔秀純となのり、六角義秀の近臣となり、のち義秀から志賀郡の雄琴城を賜わり、志賀郡の旗頭を命じられた。
 雄琴は北国や北近江から比叡山や坂本、さらに大津・京都に通じる北国街道の要地であり、琵琶湖湖西の水上を抑える重要な地点でもあった。このため、六角氏は早くからこの地に城砦を築いて西近江を固めるとともに、上洛や帰国の道筋を安全たらしめ、さらには将軍家の後ろ楯となって幕府や京都の治安を担っていたことから、雄琴を中心として南の坂本、北の堅田から京洛に通じる道を確保していたのである。
 それゆえに、六角義秀は信任する和田秀純を、雄琴城に入れて守備をさせたのである。その後、織田信長が将軍義昭を将軍に奉じるという名目で、近江に大軍を進めてくると義秀以下佐々木六角の旗頭たちは信長に協力することとなり、ついには信長の支配下となった。
 ところが、箕作城主の六角義賢(承禎)は、信長にあくまで抵抗して滅ぼされた。それ以後は佐々木家の旗頭たちは、六角義秀に仕えるとともに、信長の陪臣という立場となった。なかでも雄琴城主の和田秀純は、坂本城主となった明智光秀の支配下にも従うという、複雑な立場となっていった。
 その後、光秀が謀叛を起こして、信長を京都の本能寺に攻め殺した時に秀純は、光秀の味方には加わらなかった。そして、光秀を討ち滅ぼして、信長の仇を報じた豊臣秀吉に従った。そして、秀吉よりも先に秀純は死去した。
 秀純の嫡子は信盛で、六角義郷に仕えたが、六角氏が衰微したため、岐阜城主で信長の孫にあたる織田秀信に仕えた。慶長五年関ヶ原の合戦が起こり、秀信が西軍石田三成に与したため、東軍に岐阜城が攻め落とされたとき、信盛は奮戦して討死した。家は弟の正盛が継いだ。
 正盛は兄と同じく弓術に優れた武士であったが、佐々木氏が滅亡し、徳川氏の天下となり一国一城の令が布かれたため、雄琴城は廃城となった。そして、正盛は世に出る機会もなく郷士となって、六十七歳で没したという。
 その後、和田氏は雄琴に住して、江戸時代には膳所城主の本多氏、大構城主の分部氏などの知遇を得るなどして、一族は繁栄して、いまに多くの古文書や武具などと併せて家名を伝えている。
 足利幕府最後の将軍義昭に仕えた惟政を出した和田氏が、清和源氏満政流なのか、ここに記したように佐々木六角氏流なのか、その真偽は分からない。しかし、それぞれの家に伝わっている説が、正しいと信じる限り、それが正しいのだろう。(武家家伝 和田秀純で検索
お墓には、和田中務秀純・後側は慶長8年12月3日卒?(秀純は、光秀の味方には加わらなかった。そして光秀を討ち滅ぼして、信長の仇を報じた豊臣秀吉に従った。そして、秀吉よりも先に秀純は死去した。古文書には本当に整合性が無い)と彫ってあつたが和田家の古文書にでも書いて有り例の叡山高校教諭の方が彫ったのかも?と想像をたくましくしております。江戸初期(1603年)から彫られていたら風化して読めないかも?と思ったりして。)
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