瀬田唐橋から出発しました。



土山の本陣跡です。
土山宿は、京都、大津、草津、水口、土山宿です。
土山の地名は中世甲賀五十家の一つ土山氏がこの地を治めたのが由来らしいです。
難所の鈴鹿峠を控え旅人で賑わった。
「飯盛りなし、宿の女の袖を引き、その夜の伽とする也」とあります。
岡崎宿
亀山、庄野、石薬師、四日市、桑名、宮、鳴海、知立、岡崎で岡崎に来ました。

1542年12月16日、岡崎城内で産声を上げたのが徳川家康です。
岡崎藩は代々五万石でも「五万石でも岡崎様はお城下まで船が着く」と唄われ舟運が盛んであった。
「岡崎女郎衆は良い女郎衆、揚げ代二朱也.五百文もあり」とある
袋井宿
妙日寺、日蓮の父、貫名重忠の墓と供養塔が在る

Posted by makun at 15:34:23 │東海道&中山道の旅
2005-11-18
袋井宿は日本橋、京のいずれから数えても27番目と謂う丁度真ん中の宿です。
「この宿の飯盛り女も外の宿にかわる事なし五百文也」とある

御油宿
赤坂、御油と来ます。
「御油に赤坂吉田がなくば何の江戸通い」(参勤交代の武士編)と唄われ「揚げ代は五百文と三百文あり」とある


三島宿
吉田、二川、白須賀、新居、舞阪、浜松、見附、袋井、掛川、日坂、金谷、島田、藤枝、岡部、府中、はぁ〜・・・
江尻、興津、由比、蒲原、吉原、原、沼津ようやく三島。どっこいしょと。。。
箱根峠を無事越えた人々は「山祝い」として祝杯を上げた。三島大社の参拝者もあり多いに賑わった。
「飯盛り女郎五百文いにしえより名高し」とある.

箱根は小田原藩が管轄した
日本橋
箱根、小田原、大磯、平塚、藤沢、戸塚、保土ケ谷、神奈川、川崎、品川、日本橋・・・お疲れさまでした。
(車のナビチャンが空いている道を選び藤沢以後は東海道を通らず、私も疲れていたし関東生まれなもので結構馴染みがあるものでつい、
いいか!って飛ばしてしまいました


江戸時代の旅
江戸時代の旅と云っても江戸時代が300年近くあるし貨幣価値が最初と終わりではかなり違うと思いますが余り難く考えないで下さい。
武州荏原郡喜多見(世田谷区)に国四郎(百姓)が伊勢に出かけた。(弘化2年、1845年)1月22日出発、伊勢参りのあと大阪、宮島
(広島県)岩国(山口県)京都、琵琶湖等を見物して4月22日帰った時の費用(名物の飲食、土産、芝居見物、見せ物見学を全て入れて)
が5両2分・・・1両が10万で55万くらい
庶民が泊まる宿は200文くらい(¥5,000)因みに飯盛り女の相場も200文。
江戸時代の川柳 亭主の旅日記を見た女房が ※旅日記、この二百はえ、二百はえ
旅籠は売店がない、代わりに宿に物売りが来る 14〜5才の前髪(少年)がお煙草入りませんか?楊枝(ようじ、ハブラシの事)歯磨き
(歯磨き砂)お鼻紙はいりませんか?
別の物売りが焼酎は要りませんか?白酒あがりませんか?この焼酎は脚に吹きかけ疲れを取る事もする。
それに座頭の按摩が来る寄付の勧進に来る瞽女が三味線を鳴らして伊勢音頭を唄う・・・と賑やかだったらしい
江戸時代の旅続き
普通、江戸からだと江の島、鎌倉、箱根七湯等一週間ぐらいが多かった。これなら一両もあれば充分に贅沢な旅を楽しめた。
※ 七つ立ち は午前四時頃で旅人は大体1日十里ぐらい歩いたから朝は早い。
※江戸から京都。125里余り13〜15日くらいの日程。
※草鞋一足20文、※ 「あい お世話」茶店を出る時、茶だけ飲んで立つときは茶わんに1文入れる事になっていた。
※普通の遊女は店先に並んで客を待つ「張見世」張見世で気に入った遊女を選び揚げ代も高くて2分(4分で1両)
か1分(1両で10万、単純計算で5万か25,000)無論それ以下でも遊べた。
※因みに弥次喜多の北さんは華水多羅四郎(はなみずたらしろう)の抱えの色子だから喜多八は陰間上がりだった。
(陰間・色を売る少年)※ 川柳にも遊女よりあわれ陰間の年季明け(少年の僅かな間だけ商売になるがやがて、
髭の剃跡が青々してくる、筋骨たくましくなるとグロテスクになるばかり、
そうなると陰間でなく化け間になる。寺院関係者の愛好者が多いらしくそのつてで、寺男やら武家の中間か物売りになるしかない。
※陰間の事を筍だと云う何故なら成長したら喰えなくなる。 一般に江戸庶民は男色に大らかだった。
※東海道中膝栗毛は膝を栗毛の馬に例えた洒落です。
※木賃宿 食料の持ち込みでそれを焚く薪代を払うから。